イベントをどう見るか?同じアホなら踊らな損

長期的(大切なこと・生き方・姿勢)

バレンタインデー、ハロウィン。

今日はエイプリルフール。

毎年、色々な企業や団体が、趣向を凝らしたウェブサイトを作っているのはご存知だろうか?

日本にも、本当に色々なイベントがある。

地域の行事やお祭りなども調べればたくさんいろんな行事が出てくる。

なんでイベントがこんなにたくさんあるんだろうか?

そして、そういうイベントを「無駄なこと」と捉える感性が最近随所で見かけられるような気がしている。いわゆるさとり世代で括られる人たちはそういった側面が強いのかもしれない。

イベントは基本的には”無駄”という感性

なぜイベントを、”無駄”と捉えるのだろうか。

それは、世の中のイベントは無くなっても、基本的に誰かの生存をすぐに脅かすことはないという本質があるからではないか。

もちろん、イベンターやそうしたイベントを企画成立させることによって利益を出すことを生活の糧にしている人もいる。しかし、そういう人は一部の人で、反対に多くの人は参加者や傍観者としてイベントに関わる。

そういう人にとっては、イベントが無くなっても、命がなくなるわけではないし、無くなったとしても生活そのものは成り立つ。

言ってみれば、イベントは、余分というか、余剰というかゆとりというか、無くなっても困るものじゃないから極端な言い方をしたら、ある意味で”無駄”と言い切ることができる。

なんで、そんなことを言うのか疑問に思う人も、若干呆れる人もいるかもしれない。

しかし、捉えようによっては無駄なはずなのに、無くならないどころか、どんどん新しいイベントが出てきて、それが、参加者や見ているだけの人に受け入れられるのはなんでなのか、そう考えて見ることには、「なんで存在するんだろう」と改めて考えてみる上でとても意味がある。

自分にとって意味がないと感じるものでも、関わり方を変えると、”意義”が見えてくる。

”意義”あるイベント

なんで、見方によっては無駄かもしれないことが、次から次へとおこなわれるのか。

イベントはなんで行われるのか。

イベントはどうして発生するのか。

イベントの意義はなんだろうか?

「そんなことはいうまでもないじゃないか」

そう思う人は、健全な生活を送れているのだと思う。

それは、豊かな人生とは、無駄をいかに愛せるかということにかかっているからだ。

つまり、イベントの”意義”とは、次のようなことだと思う。

「イベントがなんらかの心理的な豊かさを誰かにもたらしているか」どうかだ。

例えば、いつもの日常とは少し違う見方や刺激を、イベントがもたらしてくれることがで、イベントそのものを楽しむことができたり、逆にイベントという比較対象を得ることで、日常生活が愛おしく思えたり、大切に思えたりする。

あるいは、イベントが日常生活の中では、少し恥ずかしいようなことも、「ちょっとやってみようかな」という後押しをしてくれるかもしれない。

バレンタインデーや母の日といったイベントは、まさに普段自分が少し恥ずかさを感じてしまって、誰かに伝えられない思いを伝える後押しをしてくれる。

誕生日や、結婚式、お葬式というのも主役とその周囲の人々の関わりや関係性を明らかにして、より日常生活を豊かにすることに役立つ。

イベントの”意義”は、その人個人にどのような楽しさをもたらすかという要因と、周囲の人との関係性を表出させて実感し、整理するという大切な役割がある。

ハレノヒ、ケノヒという言葉を聞いたことがあるかもしれない。

そういう文脈において、イベントはとても大切なものなのだ。

さとり世代の損失

イベントを無駄と捉える感性は、非常に物質的だったり資本主義的なものだと思う。

勝ち組負け組という極端な言葉が世間に一般的に浸透してしまっているが、これは収入という切り口がことさら強調されてしまう現代社会の弊害だと思っている。

お金は確かに大切だし、何かのイベントに参加することで時間も消費する。

それを、”無駄”として捉える感性は、実はよくわかる。

生活の判断基準の中心が

「何をするべきか」

「何をしなければならないか」

にあり、結果として

「何をする必要がないか」

という判断になっている。

この、する必要がないことが”無駄”という言葉でひとくくりにされてしまうことによって、「必要がないことをするのは悪いことである」という、無意識の罪悪感が生まれる。

この判断は、非常にビジネス的で、

「いかに失敗をしないようにするか」

という観点から言うと、優れたものの見方である。

だがしかし。

人生の豊かさという観点からみると、本当にそれでいいのだろうかと心のどこかで思っていないとおかしい。

なぜなら、しなければならないことが自分自身の心のそこからの納得できていないもので、周囲の人間からの期待に応えようとするモチベーションが元になっているのだとすれば、人生の多くの行動が

「させられ体験」

になってしまうからだ。

しなければならないことをするだけの人生は、一見なんんの損失もない。

しかし、自分が本当にやりたいことが不明確なまま淡々と過ごす人生は、本当はすごく損な人生なのではないだろうか。

そんな人生は本当に自由な人生と言えるのだろうか?

その問いに対する答えはNOだろう。

さとり世代は、そういう点を気をつけて生活しないと実は大きな損失を日々出しているかもしれない。

パリピな人々

さとり世代の逆が、「パリピ」だと思う。

彼らの生き方は非常に刹那的で、時に破滅的にすら見える。

しかし、「今を全力で楽しむ」「なんでも全力で楽しむ」という姿勢においては、非常に学ぶべき点がある。

やることなすこと、何かが積み上がるわけではないかもしれない。

だけど、自分の人生を全力で楽しんでいる。

自分が楽しむためにある行動を選択してそこに責任を取ろうという覚悟があるなら、彼らの生き方は人として非常にかっこいいものであると思う。

逆に、後から「アリとキリギリス」のキリギリスのように全力で遊んだツケを誰かに保証してもらうようだとかなりカッコ悪い。

自分の人生を本当の意味で楽しむには、自分の選択に責任を持つ覚悟が必要になる。この自己責任さえ取れるなら人は何をやっても構わないのだ。

イベントとの付き合い方

改めて、イベントは”無駄”なのだろうか。

ある人にとっては、そうだし、そのイベントに能動的に乗っかって全力で楽しもうとすることができる人にとっては非常に意味があることなのだ。

結局何が好きで、なにが意味あることかなんてその人その人によって十人十色であることはいうまでもない。

だからこそ、普段から自分がどんな感性を持った人間でどんなことがしたくて、どんなことをすれば「自分で自分を大切にできている」という感覚を得ることができるのかについて、しっかりと向き合って置かなければならない。

イベントと付き合うということは、自分自身と向き合い、周囲との関係性に真摯になることに他ならない。

そういう意味で、イベントへの参加を考える時、これほど人生を生きるということを象徴することもないと言える。

イベントを通して自分自身の生き方を捉えなおすことができたり、シンプルに自分の人生を楽しむことができるとすれば、そのイベントはとても有意義なものであると言って良い。

そして、自分の気持ちを尊重する覚悟と勇気を持つことが大切になる。

そうしてイベントと付き合えば、人生は絶対に楽しくなる。

この記事のまとめ

まとめると踊る阿呆も見る阿呆もいる中で、どちらを選択するかは、

「自分がやりたいかどうか」

「やってみたい気持ちを尊重する勇気」

を持てるかどうかにかかっている。理屈を先に持ってきてはいけない。理屈は、感情論の後から付いてくる。

少しでも踊って見たいと感じたら、ほんのちょっぴり勇気を出して踊らにゃ損ですよ。


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